最後に処刑された男 ロナルド・ライアン、安住の地へ
ロナルド・ライアン Ronald Ryan は、1965年12月9日にビクトリア州州メルボルンのペントリッジ刑務所 Pentridge Prison 脱走中にジョージ・ホドソン George Hodson 看守を射殺し、1967年2月3日、同刑務所で絞首刑に処された。その後、オーストラリアの死刑制度は全面的に廃止され、ライアンはオーストラリア最後の死刑囚として歴史に名をとどめることになった。
その遺骸は刑務所内に埋葬されたことは分かっているが、墓地を示す記録も墓標もなく、様々な説が出ていた。ペントリッジ刑務所も1997年に閉鎖され、観光客向けの施設になっている。最終的に考古学者が唯一同定した場所がおそらくライアンの墓だろうとされている。
10月28日付ニューズ・リミテッド系紙は、ライアンの3人の娘が父親の遺骸の発掘許可を申請していることを報じている。3人は、父親を火葬に付し、遺骨を、2003年に亡くなり、州西部ポートランド Portland の墓地に眠る未亡人ドロシー・ピロア Dorothy Pirious さんの隣に埋葬したいと語っている。
ライアンの遺族の意思を汲んで、遺骸の改葬のために尽力していた元ペントリッジ刑務所所属のピーター・ノーデン Peter Norden 牧師は、「改葬は、ライアンの3人の娘と孫たちにとって家族の記憶に区切りを付けることになり、またオーストラリア社会にとっては一歩人道的で文明的な社会として発展したことを示す道標となるだろう。オーストラリアの法律にはもう極刑という言葉がないことの証となるだろう」と語った。
2007年2月、州政府は考古学者の結論に従い、ライアンの埋葬地を発表、追悼のため、その場所に庭園を造る計画を提案している。遺骸を発掘した後、検視法廷がDNAテストを実施し、ロナルド・ライアンであることを確認する。
ホドソン看守を射殺したのが本当にライアンであったのかどうかも謎のままになっている。
死刑復活論もあるオーストラリア
オセアニア地域では全ての国が既に死刑を廃止しており、オーストラリアはその盟主とも言うべき立場にあるが、そのオーストラリアでも死刑復活の動きは無いこともない。
1788年から英国の流刑植民地として英国本土の囚人とその管理官等によって入植されたオーストラリアは、法制度も英国と同様に用いられてきた。18世紀~19世紀の英国は死刑執行多発国であったことからオーストラリアの死刑はかなり多かったようである。
流刑囚の多くは暴力的な犯罪者ではなかったので殺人などの凶悪犯罪はそれほど多くなかったのだが、その後、英国法の適用により窃盗(羊も含む)、レイプ等で年間80件ほどの死刑が行われていた。
オーストラリアではその人口の少なさと人口密度の関係からか大量殺人、連続殺人等の事例はまれだった。法律上死刑執行(絞首刑)がなされたのは、最後のロナルド・ライアンまでの間に1,648名が記録されている。現在のオーストラリアの最高刑は仮釈放なしの終身刑であり、英国の厳罰主義は独立後もオーストラリアに受け継がれている。
オーストラリアはかなり独立制の高い州制度をとっているのでその州により死刑廃止年はまちまちである。
クィーンズランド州(1922)、ニューサウスウェールズ州(1955)、タスマニア州(1968)、オーストラリア首都特別地域(1973)、北部準州(1973)、ビクトリア州(1975)、サウスオーストラリア州(1976)と死刑制度は廃止された。1984年にウェスタンオーストラリア州で廃止されると翌年オーストラリア全土で死刑制度が全廃されたのである。
オーストラリア政府も国際条約等に署名、死刑復活はないと明言しているが、オーストラリア国民の中では死刑廃止から四半世紀を過ぎようとしている今でも死刑復活希望論があるのである。2003年8月の世論調査では56%の国民が死刑復活を望んでいるという結果が出ている。これは2002年10月のインドネシア・バリ島サリクラブ爆破テロ事件で死者193名中オーストラリア人87名を出したことなどが影響しているのかもしれない。
※後半の記述については、「死刑廃止と死刑存置の考察webグループ」のサイトを参考にさせていただいた。










