Archive for April, 2007

SNS教室の講師

久しぶりに、オーストラリアとはまったく関係ない話。

ブログの書き込みをまたまた何日もサボってしまった。
と言うのも、わが加入プロバイダーである「J:COMさいたま」が主催する「SNS教室」の講師をつとめていて、その教材作りや受講者の皆さんへのオンラインでのサポートなどで、珍しく多忙(?)な毎日を送っているためなのだ。

J:COM(全国展開のケーブルテレビ局)は、昨年5月から「エルダーいきいきプロジェクト」を展開中で、2007年問題に対応して、職場から地域に大量に還流する団塊の世代をサポートする一つの手段として、同社が運営するSNS《@myページ》を活用しようと考えている。
そのプロジェクトの一環として、私が住んでいる地域をカバーする「J:COMさいたま」が昨年10月から@myページの利用方法をテーマにSNS教室を開講した。
受講者は50歳以上の中高年が対象で、3回の授業で、SNSとは何ぞやからプロフィールの登録、メッセージのやりとり、コミュニティへの参加、トピック、コメントの投稿、画像のアップロードのやり方まで、SNSの基礎的使い方を一とおり学習する。
講師は、J:COMのユーザーから「コミュニティ担当」として採用された私を含めて2名が担当。講習会のカリキュラム、教材の作成など一切を任されている。

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教室風景

1回目が大変好評だったということで、4月28日から第2弾が始まった。
当日の教材はパワーポイントによるプレゼンテーション、実際の書き込み練習などが中心だが、それとほぼ同様のものをホームページで作成して、教室と教室の合間の自宅での予習・復習にも使用できるようにしている。
また、1回目の受講者から寄せられた質問やそれに対する回答も、データベース化してホームページで新旧受講者全員に公開している。
インターネットの利用についての教室なので、講習会当日の授業だけでなく、当然次の教室までの毎日がオンラインでの実践授業であり、練習用の受講者専用のコミュニティを設けて、その中で質疑応答を行ったり、個別のメッセージの送受信の練習への対応も行っている。

受講者の皆さんは一般的にインターネット初心者だが、中には80歳代の大先輩で画像ソフトを使いこなされている方がいたり、ボーリングが趣味で、リタイア後地域で100名以上の中高年の仲間を集めて定期的にボーリング大会を主宰され、ご自身でも軽く200台を叩き出すという方がいたりで、それぞれの方々のバイタリティには心から敬服している。

私自身、インターネット歴は長いものの、この講師を仰せつかって時点ではSNSは未経験で、必要に迫られてSNSに参加したというまったくの付け焼刃でスタートしたのだが、何とか他人に教えられるまでになった。
SNSはコミュニケーション・ツールとして今後ますますその利用が促進されるものと思われるが、我々の活動が地域のコミュニティ形成に多少なりともお役に立てばと願っている。

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ブリスベンの Old Windmill

前にもここで紹介した川越市在住の大槻さんから、”KANGAROO POST No.24″ が届いた。
氏は、”Old Sydney Windmills”- 昔々シドニーに風車がありました - と題して、オーストラリア草創期にシドニーにあった風車の話を取り上げている。
それによれば、ニュー・サウス・ウェールズ植民地では入植者たちの食糧を賄うため、次々に風力式の製粉所が建てられた。最盛期にはその数は19基にも達し、高台に設けられた風車の廻る姿が市内あちこちで見られたそうだ。

私にとっての “Old Windmill” といえば、大好きな街ブリスベンの Wickham Terrace に残るものの方が馴染みが深く、その写真は今こうしてキーボードに向かっているわがPCの側にもちゃんと飾られている。

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ブリスベンの The Old Windmill(2001年12月、筆者撮影)
画像クリックすると大きな画像が表示されます

そんなことで、今日はブリスベンの “The Old Windmill” のことを少し詳しく書いてみようと思う。

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ブリスベンの CBD の北、Wickham Terrace の坂の途中に鎮座する “The Old Windmill” は、植民地時代に建てられたブリスベンに現存する最古の建造物の一つである。

1826年3月17日、パトリック・ローガン Patrick Logan がモアトン・ベイ Moreton Bay 流刑植民地の2代目の司令官として着任した。彼は1830年に暗殺されるまでの4年間、植民地で最も残酷な司令官だという悪名をはせた。
30年代に囚人の間で歌い継がれたというフォーク・ソング “Moreton Bay” の中でも、
  ”鞭打たれた背中は裂け、流れ出る血で彩られ”
とか、
  ”古代のエジプト人やユダヤ人のように、ローガンのくびきの下で圧迫された”
などという歌詞が残っている。
そのローガンの命令・監督の下で囚人たちによって築かれ現存する建物の一つが “The Old Windmill” である。

着任したローガンは、特に独房監禁の場としての刑務所と囚人に「踏み車の刑」を科すための ‘Treadmill’ を必要とした。1927年に砂岩とレンガ製の建物が植民地を見下ろす高台に建てられ、翌1928年にシドニーから運ばれた ‘Treadmill’ が取り付けられ完成を見た。
材料となった砂岩はオックスレイ Oxley で切り出され、レンガ用の粘土はフロッグス・ホロウ Frogs Hollow (今のアルバート・ストリートとクイーン・ストリートのあたり)で掘られて、現在ローマ・ストリート・ステーションが立っている辺りでレンガに成型された。
Treadmill は外部に置かれ、歯車のついたシャフトで中に繋がっていた。タワー内部には二組の石臼が置かれ、一つは風車に、もう一つはTreadmill に繋がっていたが、これらの石臼はフランスのパリ盆地で切り出されたフランス珪石で造られていた。

本当に風車はあったのか?

この建造物については、労役の場としての Treadmill に関する話が多く伝えられていて、果たして本当に「風車」が付いていたのか、本当に ‘Windmill’ だったのか、という疑問が残る。しかし、完成時点で「風車」が取り付けられていたことは間違いないようで、運転開始の日に、周囲の樹木を切り開いて風通しを良くしたにも拘わらず充分な風力が得られず、風車がうまく廻らなかったという逸話が残っており、後で調べた結果、風車の帆が逆に取り付けられていたというお粗末な話も残っている。

1830年代の作品とされるブリスベンのスケッチには、4枚の帆を持った風車がはっきりと描かれており、1988年に行われた保存・修復作業では、この建造物が風車を持ったタワー・ミルであったこと、風車の帆が3分の1位の高さに設けられたプラットフォームにより管理されていたことが確認された。

windmill_old1.jpgwindmill_old2.jpg
1930年代に描かれた絵に見える風車
画像はいずれも “Oxley Memorial Library of Brisbane” 所蔵
(”OurIndooroopilly.com” から)

この帆(を張るバー)は、植民地時代の初期に測量技師グループを殺害したとして逮捕された二人のアボリジニ、メリディオ Merridio とノウガビル Naugavil が吊るされたというおぞましい歴史も持っている。地域の先住民たちはその場に集められ、見せしめとして刑の執行を見物させられたが、観衆を鎮めるのに軍隊全員を要したという。現在では、この二人の受刑者は誤って逮捕されたものだったと考えられている。

Treadmill 足踏み車

「拷問の塔」として知られた Treadmill は、25人の囚人によって一日14時間稼動した。もし懲罰を受けたときには16人で動かさなければならなかった。踏み車を1回廻すのに一人の囚人が24歩。それを160回転させて(3840歩となる)15分の休憩。1829年にマイケル・コリンズという囚人が倒れて亡くなったが、ローガンは Treadmill の使用を止めなかったという。
このように、受刑者の労役としては大変厳しいものだったのだが、2週間も経って足が慣れてくると丈夫な囚人にとってはそうでもなかったらしい。事実、穀物を運んでくる船が遅れ(急いで製粉が必要となっ)たり、風が弱くて風車が廻らなかったりしたときには、自分から名乗り出て Treadmill で働く囚人もいたらしい。勿論、その報酬としての食事や休息があってのことだったと考えられるが……。

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Treadmill はこんなものだった(ブリスベンのものではない)

この Treadmill は、後にタスマニアに送られ、映画 “For the Term of His Natural Life” の撮影の際、セットの一部として使用され、今はホバート博物館で保管されているそうだ。

1836年2月、落雷によって風車も Treadmill も大きなダメージを負った。その修理作業のため、シドニーの一人の囚人ウェブ Webb が、「作業期間中にお茶と砂糖とタバコが許されるならば」と志願し、6月にモアトン・ベイに着いた。彼の仕事は満足の行くものだったため、コットン Cotton 司令官はウェブに休暇のチケットを与えるよう推薦し、1938年に認められた。

1837年、現場監督として着任したアンドリュー・ペトリー Andrew Petrie は、流刑植民地が間もなく閉鎖された後の ‘Windmill’ の取り扱いについて検討し、1839年4月に出された報告書には公共物として植民地内に移転すべきものとして記載されている。

しかし、その後 Windmill’ のタワーは、3ヶ月以内の撤去を条件に単なる資材として競売にかけられてしまう。幸い新任の兵站部の代理人が30ポンドでこれを購入することになり、辛うじて解体は免れた。その後再び競売に付されるが応札者がなく、政府の所有するところとなった。
最初の競売のとき、風車の帆とタワーの頭頂部は他の部品と共に取り外され消えてなくなってしまった。

信号所とタイム・ボール

1839年に自由植民地になって以降、ブリスベンは人口が増加し商業活動も活発になって主要港としての役割を果たすようになった。ブリスベン川の河口と町の間に信号所が必要とされ、ウィンドミルの立つ Windmill Hill が候補地に挙がった。

1861年、古い製粉所のタワーは信号所としての改修が加えられた。6月17日付のクイーンズランド・ガーディアン Queensland Guardian は「最上部に通じる螺旋階段がある5層の建物。最上階には新しい上屋が建てられ周囲には鉄製の手摺が設けられる。そこには高い旗竿が取り付けられ、リトン Lytton (ブリスベン川の河口の町)から送られてくる電信を受けて入出港のニュースが表示されることになる。」と報じている。
また、ブリスベン・クーリエ Brisbane Courier は「タイム・ボール the time ball は午後1時に定期的に降ろされ、ブリスベンの住民が時計を合わせるための正確な時を告げる。」と伝えている。(このタイム・ボールは、1866年に一旦「時砲 Time Gun」にその役割を譲ることになる。)

13年後の1874年、旗竿は ‘ironbark’ (ユーカリの一種で非常に硬い材料)製の32フィートのポールに取り替えられ、1894年には新しいタイム・ボールが設置された。12月の ‘the Courier’ によると、「標準時法が議会を通過し、来年1月1日に施行される。従って植民地(今のクイーンズランド州)全体に、グリニッチ標準時より10時間早い東経150度の標準時が適用される」と述べている。

史跡としての保存へ

その後タワーは、1868年まで一部にクイーンズランド博物館の分室が置かれたり、1893年から1922年までの間は消防署の火の見櫓として使用されたこともあった。
1921年にはその管理がブリスベン市に移り、何に利用すべきかというさまざまな議論があったようだが、結局タイム・ボールと信号所として使い続けることに決まった。

1945年以降もいくつかの使用方法や提案されたが、ブリスベン市はこのタワーを史跡として永遠に保存することを決定し、あらゆる修復作業は建物保護の観点からのみ行うこととし現在に至っている。

参考にさせていただいたサイト:
Windmill
Brisbane’s windmill an account of the conservation process
ほか

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世界でガンバル日本人-内田真弓

昨日6日、メルボルン在住の内田真弓さんからメールが入った。
7日、フジテレビ系列の新番組「うふふのぷ」、「世界でガンバル日本人」というコーナーに内田さんが登場するという。
前にも書いたが、内田さんは、私たちの2000年の旅でメルボルンでふらりと立ち寄ったアート・ギャラリーでお会いし、アボリジナル・アートについて熱っぽく語る姿に魅せられ、夫婦共々大ファンになってしまった素晴らしい女性。

番組では、アリス・スプリングスから車で何時間か入った、レッド・センターのど真ん中にあるアボリジニの村を訪ね、そこでの生活ぶり、アートの制作風景、内田さんのアボリジナル・アートとの出会い、アボリジニと内田さんの付き合いなどを紹介する。
キャビン・アテンダントだった彼女がインターンシップで渡豪。日本語教師の仕事を終えて帰国する直前、雨に降られて何気なく立ち寄ったギャラリーでのアボリジナル・アートとの運命的な出会い。そこの主人にすすめられての6年間の勤務、そして独立。アボリジナル・アート・コーディネーターとして、日本の人々にもっともっとアボリジナル・アートを紹介していきたいと語る内田さん。
あっと言う間に終ってしまった約15分間だった。

内田さんのメールでは、この撮影の依頼が来たのは、なんと一週間前。かなりの強行スケジュールで、メルボルンから3000キロを撮影隊7名を引き連れての旅。撮影期間はたったの2日半だったそうだ。
「連日の睡眠不足で目の下のくまが見事に輝いている姿が、どうして全国放送で日本のお茶の間に放映されなければならないの?」と嘆いていたが、どうしてどうして、相変わらすきらきらと輝いていたのはやはり内田さんの瞳でした。

番組の途中で、今年も日本でのアート展が予定されている旨の字幕が入った。
またお目にかかれるのを楽しみにしている。

オーストラリアの日本語情報誌のサイト Dengon Net で、内田さんのエッセイが連載されている。
http://www.dengon.com.au/category/ren/aboriginalart/

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ソロモン諸島で巨大地震

今日12時の Australian Herald によると、4月2日にソロモン諸島で発生したマグニチュード8.0の地震とそれにより発生した津波による犠牲者は、少なくとも22人に達した。
犠牲者は震源に近いギゾなどの西部に集中しており、ソロモン諸島政府は2日夜、西部ウェスタン州とショワズール州に非常事態宣言を出した。

現地では、懸命の救助活動と被害の詳細な調査が進められているが、今日も余震と見られる強い地震が被災地を襲い、救助活動を難しくしている。
多くの島によって構成される地域であるため、通信事情などから被害状況の全容は未だに正確に把握できない状態で、被害の全貌が分かるまでにはまだまだ時間がかかるものと思われる。

昨日、地震発生直後に津波警報が出されたオーストラリア、クイーンズランド州北東部沿岸では、海面の僅かな上昇は観測されたものの特筆すべき被害は発生していない。
しかし、沿岸部に住む住民は一時大パニックに陥った。

ケアンズ Cairns では、学校は休校となり、会社、店舗などの事業所も休業、何百人もの住民が高台へ避難を続け、特に山の頂上にあるキュランダへ向かう道は大渋滞となった。
住民は、最初の警報が出された後何のアドバイスもなかったためパニックと流言飛語が広がったと言っている。
病院では緊急以外の診療を停止し、約100人の入院患者を上層階の病室に移動させた。

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キュランダ方面に向かう車の列

しかし、そんな中、観光客の中には、津波の脅威も全く知らずにアウター・リーフへの日帰りツアーを続けた人たちもいたようだ。
あるイギリス人観光客は、ちょうど津波の波がやってきたと考えられる時間にグリーン・アイランドの海岸歩いていたが、脅威は全く感じなかったそうだ。
「えっ!冗談でしょう。津波が来ると分かっていたらボートなんか乗らないわよ!」と言う。
グリーン・アイランド・リゾートの支配人リサ・クラウス Lisa Krause は、「30人の滞在客と30人にスタッフはいつでも避難できる体制をとっていました。皆に避難の可能性を告げ、安全と確認されるまでばらばらにならないように伝えていた」と語る。
サン・ディエゴから来た家族連れの観光客は、「リーフ・ボートは危険が去るまで乗客を降ろさなかったし、より安全な深い水面に留まっていた。リーフの大きな緩衝地帯にいてかなり安全なように見えたが、 Boxing Day disaster の後だけに、津波についてはちょっといらいらした」と話している。

クックタウン Cooktown では、主要道路は交通止めとなり、多くの人々が車で近くのグラッシー・ヒル Grassy Hill に向かった。
クックタウンで唯一海岸沿いに住んでいたフィッシャマンズ・ワーフの所有者のウィリアムズ夫妻は、私物を車の荷台に積んで高台へ移動させた。
奥さんは、「みんな、テレビで見たスマトラ沖地震の酷いシーンを思い描き、最悪の状態を恐れたんだと思います。でも、何も起きませんでした。さざ波すら立たなかったんです。でも、一番恐ろしいのは、これで慣れっこになって今度警報が出たときに甘く考えてしまうことです。」と言っている。

警察によれば、避難者による道路の混乱は警報が解除になった後も続いたという。

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イアン・ソープ、ドーピング疑惑を否定

3月30日のフランス紙「レキップ L’EQUIPE」(ネット版)の報道に端を発したイアン・ソープのドーピング疑惑問題。
昨年5月のドーピング検査で、テストステロンなど2種類の禁止薬物に異常な数値を示したとされたものだが、ソープは4月1日メルボルンで記者会見し、「異常な数値」を示していたことを認めた上で、「不正は決してやっていない。自分の記録には誇りを持っている」とドーピング疑惑について強く否定した。

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記者会見するイアンソープ

イアン・ソープ Ian James Thorpe は、シドニー、アテネの2回のオリンピックで5つの金メダルを獲得するなど、オーストラリアのスーパー・ヒーロー。「魚雷」を意味する ‘torpedo’ をもじった “Thorpedo”(ソーピード)のニックネームを持つ。
昨年11月に24歳という若さで競泳界からの引退を表明したが、「イアン・ソープ基金」を設立して難病と戦う子ども達を支援するなどチャリティ、ボランティア活動を積極的に行い、現在は地元テレビ局のスポーツ・キャスターも勤めている。

昨年5月の競技は怪我のため欠場しており、世界記録の資格剥奪などに発展することはないと思うが、余りにも早かった引退と今回の疑惑とで、またいろいろな憶測が飛び交いそうな気配だ。

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「車窓」もいよいよ大詰め

「車窓・オーストラリア編」もいよいよ今週いっぱい。
昨日アリス・スプリングスに到着したザ・ガン。今日はウルル(エアーズ・ロック)まで足を伸ばします。
いやいや、懐かしいですね!
私たちの旅は、こんなものでした。
ウルル
アリス・スプリングス

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今週の放送予定

  放送内容
4月2日(月) ウルル 平原の中に忽然とそびえ立つ巨大な砂岩の一枚岩、ウルル
4月3日(火) アリス・スプリングス出発 再びザ・ガンに乗車して、北に向かって旅を続けます
4月4日(水) そしてまた夕食 人気メニューは、キングフィッシュの照り焼きソースとカンガルー・ヒレ肉のグリル
4月5日(木) ブレックファストパック 各キャビンに配達される朝ゴハン
間もなくキャサリンに到着
4月6日(金) キャサリン渓谷 ボート・ツアー
切り立った崖に描かれたアボリジニの壁画も
4月7日(土) ノーザンテリトリー北進中 車窓には、巨大な蟻塚が
4月8日(日) 終点ダーウィン 乗車証明書が配られて、いい記念に!

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