前にもここで紹介した川越市在住の大槻さんから、”KANGAROO POST No.24″ が届いた。
氏は、”Old Sydney Windmills”- 昔々シドニーに風車がありました - と題して、オーストラリア草創期にシドニーにあった風車の話を取り上げている。
それによれば、ニュー・サウス・ウェールズ植民地では入植者たちの食糧を賄うため、次々に風力式の製粉所が建てられた。最盛期にはその数は19基にも達し、高台に設けられた風車の廻る姿が市内あちこちで見られたそうだ。
私にとっての “Old Windmill” といえば、大好きな街ブリスベンの Wickham Terrace に残るものの方が馴染みが深く、その写真は今こうしてキーボードに向かっているわがPCの側にもちゃんと飾られている。

ブリスベンの The Old Windmill(2001年12月、筆者撮影)
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そんなことで、今日はブリスベンの “The Old Windmill” のことを少し詳しく書いてみようと思う。
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ブリスベンの CBD の北、Wickham Terrace の坂の途中に鎮座する “The Old Windmill” は、植民地時代に建てられたブリスベンに現存する最古の建造物の一つである。
1826年3月17日、パトリック・ローガン Patrick Logan がモアトン・ベイ Moreton Bay 流刑植民地の2代目の司令官として着任した。彼は1830年に暗殺されるまでの4年間、植民地で最も残酷な司令官だという悪名をはせた。
30年代に囚人の間で歌い継がれたというフォーク・ソング “Moreton Bay” の中でも、
”鞭打たれた背中は裂け、流れ出る血で彩られ”
とか、
”古代のエジプト人やユダヤ人のように、ローガンのくびきの下で圧迫された”
などという歌詞が残っている。
そのローガンの命令・監督の下で囚人たちによって築かれ現存する建物の一つが “The Old Windmill” である。
着任したローガンは、特に独房監禁の場としての刑務所と囚人に「踏み車の刑」を科すための ‘Treadmill’ を必要とした。1927年に砂岩とレンガ製の建物が植民地を見下ろす高台に建てられ、翌1928年にシドニーから運ばれた ‘Treadmill’ が取り付けられ完成を見た。
材料となった砂岩はオックスレイ Oxley で切り出され、レンガ用の粘土はフロッグス・ホロウ Frogs Hollow (今のアルバート・ストリートとクイーン・ストリートのあたり)で掘られて、現在ローマ・ストリート・ステーションが立っている辺りでレンガに成型された。
Treadmill は外部に置かれ、歯車のついたシャフトで中に繋がっていた。タワー内部には二組の石臼が置かれ、一つは風車に、もう一つはTreadmill に繋がっていたが、これらの石臼はフランスのパリ盆地で切り出されたフランス珪石で造られていた。
本当に風車はあったのか?
この建造物については、労役の場としての Treadmill に関する話が多く伝えられていて、果たして本当に「風車」が付いていたのか、本当に ‘Windmill’ だったのか、という疑問が残る。しかし、完成時点で「風車」が取り付けられていたことは間違いないようで、運転開始の日に、周囲の樹木を切り開いて風通しを良くしたにも拘わらず充分な風力が得られず、風車がうまく廻らなかったという逸話が残っており、後で調べた結果、風車の帆が逆に取り付けられていたというお粗末な話も残っている。
1830年代の作品とされるブリスベンのスケッチには、4枚の帆を持った風車がはっきりと描かれており、1988年に行われた保存・修復作業では、この建造物が風車を持ったタワー・ミルであったこと、風車の帆が3分の1位の高さに設けられたプラットフォームにより管理されていたことが確認された。


1930年代に描かれた絵に見える風車
画像はいずれも “Oxley Memorial Library of Brisbane” 所蔵
(”OurIndooroopilly.com” から)
この帆(を張るバー)は、植民地時代の初期に測量技師グループを殺害したとして逮捕された二人のアボリジニ、メリディオ Merridio とノウガビル Naugavil が吊るされたというおぞましい歴史も持っている。地域の先住民たちはその場に集められ、見せしめとして刑の執行を見物させられたが、観衆を鎮めるのに軍隊全員を要したという。現在では、この二人の受刑者は誤って逮捕されたものだったと考えられている。
Treadmill 足踏み車
「拷問の塔」として知られた Treadmill は、25人の囚人によって一日14時間稼動した。もし懲罰を受けたときには16人で動かさなければならなかった。踏み車を1回廻すのに一人の囚人が24歩。それを160回転させて(3840歩となる)15分の休憩。1829年にマイケル・コリンズという囚人が倒れて亡くなったが、ローガンは Treadmill の使用を止めなかったという。
このように、受刑者の労役としては大変厳しいものだったのだが、2週間も経って足が慣れてくると丈夫な囚人にとってはそうでもなかったらしい。事実、穀物を運んでくる船が遅れ(急いで製粉が必要となっ)たり、風が弱くて風車が廻らなかったりしたときには、自分から名乗り出て Treadmill で働く囚人もいたらしい。勿論、その報酬としての食事や休息があってのことだったと考えられるが……。

Treadmill はこんなものだった(ブリスベンのものではない)
この Treadmill は、後にタスマニアに送られ、映画 “For the Term of His Natural Life” の撮影の際、セットの一部として使用され、今はホバート博物館で保管されているそうだ。
1836年2月、落雷によって風車も Treadmill も大きなダメージを負った。その修理作業のため、シドニーの一人の囚人ウェブ Webb が、「作業期間中にお茶と砂糖とタバコが許されるならば」と志願し、6月にモアトン・ベイに着いた。彼の仕事は満足の行くものだったため、コットン Cotton 司令官はウェブに休暇のチケットを与えるよう推薦し、1938年に認められた。
1837年、現場監督として着任したアンドリュー・ペトリー Andrew Petrie は、流刑植民地が間もなく閉鎖された後の ‘Windmill’ の取り扱いについて検討し、1839年4月に出された報告書には公共物として植民地内に移転すべきものとして記載されている。
しかし、その後 Windmill’ のタワーは、3ヶ月以内の撤去を条件に単なる資材として競売にかけられてしまう。幸い新任の兵站部の代理人が30ポンドでこれを購入することになり、辛うじて解体は免れた。その後再び競売に付されるが応札者がなく、政府の所有するところとなった。
最初の競売のとき、風車の帆とタワーの頭頂部は他の部品と共に取り外され消えてなくなってしまった。
信号所とタイム・ボール
1839年に自由植民地になって以降、ブリスベンは人口が増加し商業活動も活発になって主要港としての役割を果たすようになった。ブリスベン川の河口と町の間に信号所が必要とされ、ウィンドミルの立つ Windmill Hill が候補地に挙がった。
1861年、古い製粉所のタワーは信号所としての改修が加えられた。6月17日付のクイーンズランド・ガーディアン Queensland Guardian は「最上部に通じる螺旋階段がある5層の建物。最上階には新しい上屋が建てられ周囲には鉄製の手摺が設けられる。そこには高い旗竿が取り付けられ、リトン Lytton (ブリスベン川の河口の町)から送られてくる電信を受けて入出港のニュースが表示されることになる。」と報じている。
また、ブリスベン・クーリエ Brisbane Courier は「タイム・ボール the time ball は午後1時に定期的に降ろされ、ブリスベンの住民が時計を合わせるための正確な時を告げる。」と伝えている。(このタイム・ボールは、1866年に一旦「時砲 Time Gun」にその役割を譲ることになる。)
13年後の1874年、旗竿は ‘ironbark’ (ユーカリの一種で非常に硬い材料)製の32フィートのポールに取り替えられ、1894年には新しいタイム・ボールが設置された。12月の ‘the Courier’ によると、「標準時法が議会を通過し、来年1月1日に施行される。従って植民地(今のクイーンズランド州)全体に、グリニッチ標準時より10時間早い東経150度の標準時が適用される」と述べている。
史跡としての保存へ
その後タワーは、1868年まで一部にクイーンズランド博物館の分室が置かれたり、1893年から1922年までの間は消防署の火の見櫓として使用されたこともあった。
1921年にはその管理がブリスベン市に移り、何に利用すべきかというさまざまな議論があったようだが、結局タイム・ボールと信号所として使い続けることに決まった。
1945年以降もいくつかの使用方法や提案されたが、ブリスベン市はこのタワーを史跡として永遠に保存することを決定し、あらゆる修復作業は建物保護の観点からのみ行うこととし現在に至っている。
参考にさせていただいたサイト:
Windmill
Brisbane’s windmill an account of the conservation process
ほか